Step 7 迷ったその瞬間、何をするか

予習クイズ ちょっと予習クイズ

ユキがケンタに聞きました。

『あれっ?』ってちょっと違和感を感じた瞬間、まず何する?
えーと、…とりあえず歩き続けて確認?
うーん、それ実はいちばん危ないやつかも

大丈夫。Step 7 を読み終わるころには、こう答えられるようになります。

「『あれっ?』と思ったその瞬間、立ち止まる」── そして、なぜそれが遭難を防ぐうえで決定的に大事なのか、自分の言葉で説明できるようになります。

それが Step 7 のゴールです。


ここまでの Step6、地図の読み方とコンパスの使い方、そして道迷いを生む地形と環境を見てきました。

それでも ── 残念ながら、道迷いは起きます。技術を覚えても、外側の条件を知っていても、自分の心がそれを覆い隠してしまうからです。Step 7 は、その心理と、「あれっ?」と感じた瞬間にどう行動するかの話です。

道迷いと遭難の境目は、技術ではなく 最初の一歩 で決まる。

これが、私が長年にわたり遭難事例を集めて行き着いた、最後の答えです。


気付きを止める心理

ヒヤリとした分岐

下山途中、登山道がY字に分かれている場所に出た。標識はない。

ケンタ、ここはどっちだと思う?
えーと…なんか、左な気がする
気がする、はダメ

ユキは静かに、しかしはっきり言った。

根拠は?
…あー、なんか、踏み跡が左のほうがしっかりしてるから
踏み跡だけ? 地図は?

ケンタは慌ててザックから地図を出した。コンパス123 をやって、進行方向を確認すると ── 正しいのは、右だった。

左の方が踏み跡が濃かったのは、たぶん間違えた人がたくさん入ったから。怖いでしょ

ケンタは、左の踏み跡をもう一度見つめた。たしかに、しっかりしていた。


分岐の後で

下山後、休憩中。ケンタは先ほどの分岐を思い返している。

さっきの分岐、自分があのまま左に進んでたら…って考えると、ちょっとぞっとします
いま気付けたのが大事。あれね、人間がよくハマる罠なの。名前まで付いてる
名前?
『正常性バイアス』と『思い込み』。聞くと「あー…」ってなるよ

「なんとなくこっちな気がする」── これは登山中、自分の脳が一番発する言葉かもしれません。

そして同時に、最も危険な言葉です。

正常性バイアスと思い込み

人間には 正常性バイアス という心理があります。自分にとって都合の悪い情報を無意識に小さく扱い、「自分は大丈夫」「まだ問題ない」と現状を維持しようとする働き。地図と地形が少しズレていても、「この程度なら誤差だろう」と流してしまう。これも正常性バイアスです。

さらに厄介なのが 思い込み です。地図がある程度読めるようになると、「ここの特徴物は◯◯のはずだ」と先回りして決めつけ、合わない情報を無視するようになります。私自身、過去に地図とコンパスのほうが間違っていると感じたことがあります。「自分が正しくて、コンパスがおかしい」と本気で思ってしまう。今思えば、立派な思い込みでした。

あー、それ自分もやりそう…
みんな通る道。知っておくだけで違うよ

赤テープと道標 ── 安心ポイントの罠

赤テープも、思い込みと相性が悪い目印です。樹木に巻かれた赤テープは、必ずしも登山道のためのものではありません。林業作業や調査、別ルートのマーキングであることもある。それでも一度「正しいルートのテープだ」と思い込むと、テープを追って違う尾根まで連れて行かれます(→ 赤テープの正体)。

道標も同じです。古くて向きがズレていることがあります。立派な道標があると安心して、地図を確認せず進んでしまう。実際の遭難事例には、登山歴40年のベテラン女性二人が、立派な道標を信じて誤ったルートに入り、9日間救助を待った例まであります。

自分の中の感情の揺らぎ

これらと並ぶのが、自分の中の感情の揺らぎです。バス時間や日没への焦り、登り返しの面倒くささ、昼食の缶ビール一杯 ── どれも単独では大したことなさそうに見えるのに、判断の質を確実に下げます。実際の遭難事例には、「あと少しで暗くなる」と焦って近道に踏み込み、結果として尾根を一本外した例が、繰り返し出てきます。

自分は今、冷静か?」── これを時々、口に出して確かめる癖を付けるといいです。冷静かどうかを判定するのも、訓練でできるようになります。

「気がする」を打ち消す唯一の方法

根拠を口に出すことです。「地図アプリの現在位置がここだから」「コンパスがこっちを指したから」「等高線がこの形だから」── 言葉にできない判断は、そのまま進まない。これだけで、道迷いの多くは未然に防げます。


ちょっと確認 ちょっと確認

「なんとなくこっちな気がする」と思った時、まず何をすべき?

答えは

根拠を口に出すこと。

「コンパスがこっちを指したから」「等高線がこの形だから」── 言葉にできる根拠が出れば進む。出せなければ、地図アプリや地図とコンパスを取り出して確認する。

「気がする」だけで進む ── これが道迷いの多くの始まり。


行動の罠 ── よくある2つの場面

心理だけでなく、行動の段階で迷いを生む典型パターンも見ておきます。

1. 登山口違い

意外に多いのが、そもそも入山口を間違えていたパターン。同じ山域に複数の登山口がある場合、地図アプリの案内どおりに来たのに、登り始めたら違うルートだった ── 出発時点でズレが始まっていると、その後の現在地確認がすべて狂います。出発前に「自分はどの登山口にいるのか」を地図で必ず確認します。

2. 急なルート変更

当日の判断でエスケープルートを下る、悪天候で迂回する、メンバーの体調で短縮する ── どれも妥当な判断ですが、その瞬間に地図を出して新しいルートを「自分の口で説明できるか」を確認しないと道迷いに繋がる可能性があります。

もうひとつ、「行ったり来たり」という行動パターンもあります。これは Step 7 後半の「戻る決断」のところで詳しく扱います。


「あれっ?」が一番のチャンス

鳳来寺山の下山中

晩秋の鳳来寺山。落ち葉に覆われた登山道を、ケンタとユキが下っている。

ある場所で、ケンタは少し違和感を感じた。

あれっ?
どした?
いや、なんか…道、こんなに広かったかなって
止まろう

ユキは即座に立ち止まった。ケンタも合わせて止まる。

『あれっ?』は今がいちばんのチャンス。気のせいかどうか、ここで確認する

ユキは地図を取り出した。ケンタもザックを下ろしながら、自分の感じた違和感をもう一度言葉にする。

えーと、登りのとき、ここまで道広くなかった気がして
うん、私もちょっと違和感あった
ケンタが先に気付いたから偉い

地図とコンパスで現在地を確認する。結果、二人は正しいルートにいた。少し下ったところで道が広くなる場所があったのを、登りでは気付かずに通過していただけだった。

合ってた。でも、止まって確認したのは正解

二人は安心して下山を再開する。


道迷いには、ターニングポイントがあります。それが「あれっ?おかしい」と感じた最初の瞬間です。

この時点で立ち止まれるか、流して進んでしまうか。これだけで、その後の運命が大きく変わります。

数字で見ても、それははっきりしています。日本山岳・スポーツクライミング協会の山岳遭難事故報告書(青山千彰氏の調査)によれば、道迷いに気付いた人のうち、

  • 半数以上が、気付いたまま行動を継続した
  • その結果、半数以上が登山道に復帰できなかった
  • 最終的に救助された人は、全体の半数

つまり ── 気付いたのに進んでしまう人が、すごく多い。

なぜ進んでしまうのか。心の中で、「がんばれ、何とかなる」と自分を励ます声が湧いてくるからです。

「何とかなる」は「何ともならない」

なぜなら、その「何とかなる」には根拠がないからです。地図アプリや地図で確認したわけでも、コンパスで方向を出したわけでもない。根拠なく動く ── これが、道迷いを遭難に変える最大の要因です。

「あれっ?」と感じた瞬間、それは身体がまだ余裕を持っている証拠です。体力もあるし、頭も冷えている。その状態で立ち止まれるかどうかが、すべてを決めます。


ちょっと確認 ちょっと確認

「あれっ?」と感じた瞬間にやることは?

答えは

立ち止まる。

気のせいで構わない。違和感を感じた瞬間が、まだ体力も気力もある状態。立ち止まって、地図を出して、現在地を確認する。

「たぶん、気のせい」── そう思って進んでしまうのが、いちばん危ない。


戻る決断は、とことん戻る

もし、今のが本当にズレていたら

仮の話として、ユキはケンタに尋ねた。

もし今のがズレてて、戻るって決めたら、どこまで戻る?
えーと、さっき確認した分岐まで…?
正解。確実に分かる場所まで戻る

ケンタは少し意外そうな顔をした。

そんなに戻るんですか? 途中で分かるかもしれないし
途中で『あ、ここっぽい』と思っても、根拠がなければ同じこと。確信が持てる場所まで戻ってこそ意味がある

道迷いが起きたとき、戻るのは技術ではなく心理の問題です。

「ここまで歩いてきたのに、戻るのか」── 来た道を引き返すのは、人間にとってかなり気が重い行動です。登り返しになる場合は特に。「あと少し進めば道に出るかも」「戻るのは時間の無駄」── こういう声が必ず出てきます。

そして実際の遭難事例では、戻ると決めたのに、戻りきれなかった人が多く存在します。

  • 戻り始めたが、途中で「やっぱりさっきの道で合ってたかも」と思い直して再び進む
  • 「ここまで戻ればいいだろう」と中途半端な場所で止まり、また方向感覚を失う
  • 行ったり来たりを繰り返し、体力と冷静さを消耗する

戻ると決めたら、確実に分かっていた場所まで、迷いなく戻り切る。これが鉄則です。

「面倒くさい」「登り返しがつらい」「時間がもったいない」── これらの感情が一瞬でも頭をよぎったら、それはすでに冷静ではない、というサインです。


「行ったり来たり」を避ける

決断をぶらすと、同じ場所を行ったり来たりする動作に陥ります。残雪期の吹雪・濃霧の中などで起きやすく、気付かないうちに自分の足跡を踏んでいた、という事例も実際にあります。

ぶれの原因はほぼ常に、最初の決断が弱いこと。「戻るかどうか迷ったまま戻る」ではなく、「戻ると決めて戻る」。これだけで結果は大きく変わります。


それでも厳しいときの救助要請

万が一の話

ケンタは少し緊張した顔で、ユキに尋ねた。

もし、自力で戻れない状況になったら…どうしたらいいんですか?
迷う前に救助を呼ぶ、これは恥ずかしいことじゃないからね

ユキは真剣な表情で続けた。

ヘリ救助は日中しか飛ばないことが多いから、判断は早めに。暗くなってから呼んでも、その日のうちに来てもらえるとは限らない

万が一、自力では戻れない・進めないと判断したとき、救助要請の手順はこうです。

警察に電話する場合は 110 番。電話の冒頭で「山岳遭難です」と告げると、警察は素早く適切な部署につなぎます。また、電話がつながれば、遭難場所を警察で把握することができるそうです。

伝える順番:

内容
① どこで 山名、地名、可能なら GPS 座標
② 誰が 通報者本人か、人数、着衣の色
③ どうなった 怪我の有無、動けるか、症状
④ 現在の気象 ヘリ救助の判断材料(風・視界・雲)
⑤ いつ起きた 直後か、数時間前か
⑥ その他 装備の状況、ビバーク可能性

スマートフォンの Google マップで現在地の座標を表示し、ショートメールで家族や警察に伝えるのも有効です。データ量が少なく、電波が弱くても届きやすい。

電話したあとは、バッテリーを消費しないこと。不必要な通話は控え、ヘリや救助隊が来たら指示に従う。ヘリのダウンウォッシュ(下方への強い風)で物が飛んだり、樹木の枝が折れることがあるので、近づかない(→ ヘリコプターのダウンウォッシュ)。


救助の備え

普段から備えておくと安心なこと:

  • 登山届を出す(コンパス、ヤマレコなど) ── これがあれば捜索範囲が一気に絞れる
  • ココヘリなどの捜索支援サービスに加入する
  • ツエルト(簡易テント)を必ず持つ ── ビバークが必要になったとき命を守る
  • ヘッドランプと予備電池 ── 日没後の救助待機に必須

これらは Step 7 の本筋ではありませんが、読図ライブラリ安全登山と装備でしっかり扱います。

最後に、私が長年大切にしている、先輩から受け継いだ言葉を紹介して Step 7 を閉じたいと思います。


困難は克服し、危険は回避する

豊川山岳会で代々語り継がれてきた言葉です。

  • 困難を克服する ── つまり、しっかりトレーニングして、技術と体力を身につけて山に向かう
  • 危険を回避する ── 雷、増水、雪崩、台風 ── 危険なものは、避ける

この二つはセットです。困難を恐れて準備を怠るのは違うし、危険に立ち向かおうとするのも違う。準備を怠らず、危険には立ち向かわない。


そして、もうひとつ。これは国立登山研修所の北村憲彦講師が繰り返し伝えている言葉です。

引き返す勇気が必要なのではない、引き返す計画を実行することが必要

引き返すという行為は、勇気を出して決断するものではなく、最初から計画されていてしかるべきもの、という発想です。

私自身、2019年4月の五竜岳〜鹿島槍ヶ岳の山行で、五竜岳の山頂で引き返す決断をしたことがあります。山頂は晴れていて、体力的にも進める状況。それでも、

  • 昼から天候悪化の予報
  • メンバーの雪山技術

この二つを理由に、計画段階から想定していた撤退ラインに従って引き返しました。下山後、五竜岳は雲に覆われ雪が降り始めていました。引き返す決断ではなく、引き返す計画を実行したということです。


Step 7 のまとめ

冒頭の問いに戻ります。

「『あれっ?』ってちょっと違和感を感じた瞬間、まず何する?」

内容
気付きを止める心理 正常性バイアス/思い込み/赤テープ・道標/感情の揺らぎ
行動の罠 登山口違い/急なルート変更/行ったり来たり
違和感の段階で止まる 「あれっ?」「何とかなる」が頭に浮かんだら、それが信号
戻るときはとことん戻る 確実に分かる場所まで、ぶれずに
万が一は早めに 110 番 「山岳遭難です」 → 場所・人・状況・気象・時刻
心構え 困難は克服し、危険は回避する。引き返す計画を実行する

コースを終えて

ケンタとユキの本宮山と鳳来寺山の山行は、これでひと区切りです。

プロローグで「読めなくていい」から始まったケンタの読図は、Step 7 まで来て、「あれっ?」と気付ける登山者になりました。等高線が読めて、整置ができて、コンパスが使えて、道迷いの仕組みが分かって、迷ったときの初動が決まる。これだけあれば、ストーリーで学ぶ読図としては十分なゴールです。

地形図には、まだ膨大な情報が詰まっています。地図記号の細かい意味、地形の表現力、コンパスの応用技術、遭難事例の研究、装備の選び方 ── すべて、読図徹底ガイドを抜粋した、各 Step の章末コラムで深掘りできるように用意してあります。

興味の赴くままに、寄り道してください。地図は、山に入る前から使う道具です。机の上で、コーヒー片手に地形図を眺める時間も、立派な登山の一部です。

それでは、安全で楽しい山行を。

豊川山岳会 読図コーナー、Step 7 完。

Step 7 完


ここまでの全Step

Step テーマ
プロローグ 山の地図って、なんだろう?
Step 1 地図が立体にみえる
Step 2 地図を山に重ねる
Step 3 コンパスを相棒にする
Step 4 出発前にコースをなぞる
Step 5 体で動かして覚える
応用編 Step 6 なぜ人は道に迷うのか
応用編 Step 7(今ここ・完走) 迷ったその瞬間、何をするか

寄り道(読み物として)

関連セクション


もっと深く学ぶ もっと深く学ぶ(中級者向け)


戻り道


このコーナーを10年休まず書き続けている人

河合 芳尚(かわい よしひさ)

豊川山岳会/国立登山研修所講師/ナヴィゲーション・マイスター。10年以上、読図コーナーを書き続けています。

▶ プロフィール詳細・実績