仙台に陣中見舞いに行ってきました

震災7週間後の仙台行
◆2011年3月11日の震災発生から7週間、東北出身・在住の学生時代の旧友の安否を気遣いながら、ようやく仙台を来訪することができました。東京の旧友3人とともに3日間で陣中見舞いのみという旅となりました。
◎4月28日(木)15時半には退社し、奈良のお米や野菜、愛知の野菜、お酒など荷物を車に積み込んで、16時半に出発する。20時半に東名の最終地点で降り、環八道経由高井戸から西に向かい、小平市のNO君宅に22時前に到着。
◎4月29日(金)5時15分起床。6時には出発。東京外環自動車道の戸田西IC近辺の駅でK君、NA君と7時20分に合流。東北道をひたすら北をめざすが、栃木県に入るとずっと渋滞。地震の影響か高速道の路面が補修されており少し波打っている。仙台宮城ICに着いたのは16時(走行距離400km)。早めに着いたら被災地を少し回ろうという計画だったが、遅くなったので取りやめとする。津波の影響の無かった市内では一見大きな被害は無いように見える。忙しそうに行き交う車や人々を見ていると被災地の中に入ったのが信じられない位である。
泉区のH君宅に18時過ぎに到着。当初秋保温泉あたりでの宿泊と考えていたが、お言葉に甘えて厚かましくも4人で泊めていただくことにする。被災地に急にお邪魔しているのに申しわけ無い限りである。
 H君は勤務のため不在だが、同じく旧知の奥さんとお子さんが迎えてくれる。長女のAさんは4月18日に再開した元の勤務地、南三陸町の病院に勤務中とのこと。震災時は病院の4階まで避難してようやく津波の難を逃れたとのこと。4日間音信不通だったとはさぞかし不安な思いが続いたことだろうと思う。
 21時半にはH君も帰宅し、再会の乾杯!震災後は塩釜の病院で事務の責任者として、全国からの医師、看護師の受け入れ責任者としての勤務。不眠不休の勤務は最近ようやく緩和されたようだが、さぞかし疲れが溜まってきていることとは思うが、明るく元気な顔を見せてくれる。
 
◎4月30日(土)7時過ぎに起床。我々はH君の先導で勤務地の塩釜をめざす。9時半に病院に着くと、病院入口付近には全国からの医療支援者用の装備が積まれ、支援の寄せ書きも院内に掲げられている。隣町の七ヶ浜町在住のD君と病院前で合流し陣中見舞いを渡し、お宅に向かう。
 七ヶ浜町は仙台平野の北隣に突き出した小さな半島の町。北隣に松島湾、塩釜港を望む風光明媚な場所である。中央部の高台に建つD宅にお邪魔する。ご自宅自体もひびが入っているものの大きな問題は無さそうだが、本震と大きな余震の後の停電に加え、今も固定電話、ネットが不通とのことである。休憩の後、沿岸部を案内してもらう。南側に下ると遠くに菖蒲田海水浴場とその手前の水田が見渡せる場所に出る。津波の影響で浜の近くにある家屋がそのまま流れ着いたり、水田が瓦礫の山となったりで痛ましい風景が幅200m長さ1km弱にわたって広がっている。集合写真を撮りD君が説明してくれるが、みんな言葉も出ない。次は松島湾が北側に見渡せる高台に案内してくれる。松島の大小の島々が春霞の中に広がり、塩釜港に入港する貨物船なども見かけることができた。近くの火力発電所は火災で休止状態のようだ。毘沙門堂というお堂の灯篭などもほとんど倒壊状態で痛ましい。お昼は近所の障害を持つ方々が働く「豆腐・ラーメン」店で、地元のラーメンとできたてのお豆腐料理を頂く。みなさん、頑張っている姿に勇気づけられる。
七ヶ浜町、菖蒲田海水浴場の惨状  
七ヶ浜町、菖蒲田海水浴場の惨状
毘沙門堂の灯篭も倒壊毘沙門堂の灯篭も倒壊
仙台平野、荒浜方面の津波被害仙台平野、荒浜方面の津波被害
D君に国道45号線まで送ってもらい、4人で荒浜方面に向かう。実質、津波の防波堤となった三陸自動車道を仙台港北ICから仙台東ICまで南下する。三陸道の西側は町の機能は普通に近い状態だが、東側は状態が一変する。津波で倒壊した家屋、建造物の向こうに瓦礫が散乱した農地がはるか彼方まで茫洋と広がる。浜に近付く程、砂浜の砂が農地を覆うようになる。捜索、復旧のための自衛隊車両、トラックなどが通る以外は車の通りは少なく、浜までは規制がかかっていてたどり着けない。北へ走り七北川北岸に出ると多くの民家が被害を受け、工事車両や瓦礫や土砂を片付ける住民の方々、県の職員、ボランティアの方々と行きあう。うろうろと見るだけの我々はここまでと切り上げて、45号線を市内に向かう。
 NO君は大手コンビニ勤務で、食料品の品質管理で東北地方の食品生産のグループ工場の復旧で震災後既に3回宮城に入ったとのこと。彼が担当の多賀城の食品工場も横に見ながら走る。この前来た時はこの周辺はもっとひどい状態だったが、次第に片付けは進んでいるとのこと。
 この後、八木山から青葉山の工学部を通り、理学部と川内教養部に立ち寄る。理学部は化学棟の入り口が、教養部はA棟の後ろの教官棟が一部損壊していたがそれ以外は大きな損傷は目に着かなかった。
 
こちらから4人で行くと連絡したら、懐かしい方たちに連絡をつけてくれ、18時から仙台駅前で食事会となった。仙台近郊在住の6人と押しかけた4人で賑やかに旧交を温め、また震災対応のこれからについて熱い議論を交わすことができた。特にJAに勤務で自らも兼業農家のT君からは、これからの農業復興と原発影響に大きな危惧の言葉が聞かれた。夏に向けて南寄りの風で放射性物質の浮遊の可能性が高まれば、風評被害や実質被害が広がらないか心配とのことだった。
旧友との再会旧友との再会
◎5月1日(日)市内探訪の後、12時前には車で仙台を後にする。
 東北道上り線はほぼ順調に流れていたが栃木南部から渋滞。大半の運転をK君にお願いし、後半戦のため休養を取らせてもらう。さいたま市には17時半に着き、単独で首都高(C2)から東名と乗り継ぎ、休み休みで23時40分に豊川に帰宅することができた。
<感想>
GWのほとんどが出勤となり、3日間だけの陣中見舞い行となりました。ボランティアなど力になれることはできず、用意したお届け物と30年振りのオジサン達の顔を見せるだけの旅でした。今回廻れたのは七ヶ浜と荒浜近辺だけで、震災の惨状を語るにはあまりにも限られたものですが、お邪魔した四人がそれぞれ深く胸に刻み、復興を祈ったのだろうと思います。
厳しい中でも明るさを失わない皆さんの笑顔を見て、こちらが勇気づけられた3日間でした。
「明けない夜は無い」でともに明るく前進できたらと思います。

この記事を書いた人

愛知県豊川市に拠点をおき、奥三河の山々をホームゲレンデに、四季のアルプスのピークハント、縦走、ロッククライミングから沢登りとオールラウンドな山登りをしています。
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